ある一つの終わりの迎え方

10年にせよ、17年にせよ、いずれも途方も無く長い時間だった。
それらが、一つずつ、終わりを迎えていく。
その長い時間にさらに時が積まれることは、もう二度とないのだ*1
今回、別れ際をどうするのかなどという一般論や、自分や相手の傷つき度合い等というおためごかしを度外視して、自分なりの真っ当さにのみ目を向けて事実を正面から受け入れることを続けている。


関係性がどうなろうと、責任は消えるわけではない。
そして、同時に、それは大いなる詭弁であることも知っている。特に、相手にとっては、責任がどうなどというのは詭弁でしかないことだろう。


祖母の死を看取った時、生死には不可逆な領域があることを知った。徐々に冷たくなっていく、最愛の祖母の手を握りながら知った。肌でだ。
しかしよくよく考えてみると、生死には不可逆な領域があるのと同時に、生きることの生物的ベクトルは死に向かっているわけで、時間軸を長いほうへぶっ飛ばせば生まれた瞬間に不可逆的に死が約束されている。
その瞬間が訪れるまでどの程度の時間が掛かるのかの差異に過ぎないわけだ。


祖母が死に対して不可逆的な状態に陥ったとき、どうにか手術で救えないのか、救う方法はないのかと医者に詰め寄った。お袋に「もしもそれをしたところで、おばあちゃんの寿命がどのくらい延びるのか冷静に考えてごらんなさい。そして、その手術を受けることをおばあちゃんが望んでなかったことを思い出して」といわれ、理屈では分かりながらも、事実を迎合するのに手間取った記憶がある。


余談が過ぎるが、要は、関係性にも不可逆な領域があるのだと俺は確信している。
正しく言うのならば、俺の心の中にそれはある。関係性というものは、少なくとも俺にとってはそういうものなのだ。
そして、大なり小なり俺以外の人々もそうした認識があるからこそ、関係性の終焉という事実を前に、俺が祖母を看取った時に感じた混乱や気持ちのぶれを感じているのだろうとも思う。
覆水は盆には返らない。返すべきではない。そして、返ることがあると思うべきでもない。「やり直し」という概念は、新しく始めることと同義だ。やり直しや取り返しがつかないことを、当事者全員が行ってきたのだ。それに対して責任を感じるヤツが勝手に感じて生きればいい*2し、責任を感じようが過去が浄化されるわけではない。


こんな感傷にひたれるくらいには、俺には余裕がある。
俺は、そんな自分を、誰よりも忌々しく感じている。
それでもだ。相手が泣こうが、叫ぼうが、キレようが、俺は耐え切らなくてはならない。こうすることが全員にとって、より良い道であると信じているから。
終わりが終わるころ、そしてもう一つ、新しいはじまりがあると信じてぬいたことが破れるころ、俺は今と同じように自分と正対できるのだろうか。
しなくてはならない。余裕がなくなった自分をもう一度谷底に蹴落とさなくてはならない。二度と繰り返さないためにも。

*1:新しい関係が始まることはゼロではないかもしれんが、その場合でも途中で途切れたという事実は消え去らない

*2:無論、てめぇに対して言っているが