友よ

若く、まだ弱かった頃、認め合いつつも意地を張り合い、時に非難し合い、そして支え合いつつ、接近したり同化したり、時には離合と決別を繰り返し、同じ時を歩んできた友が何人かいる。
連中の心は、奥底まで覗く必要がないほど、それこそ手に取るように理解できる。それは恐らく連中にとってもそうだろう。


時が過ぎ、歩みを止めぬつもりでも、いつのまにやら皆いいおっさん・おばはんとなって足が鈍り、日常や生活の手垢にまみれ、立場や日常が織り成すものの重圧から若かりし日ほど簡単には方向転換が利かなくなっていくことを、連中と会い、話すごとに感じていた。


それはおのおのそうだったのだろう。
ここへきて、大きく舵を切る、切ったという話をちらほらと聞く。
かく言う俺もそうだ。
連中の多くは社会を自らに迎合することこそあれ、同化されることなく、自らの道を切り拓いて生きている。途方もない屈託を抱えながら、諦めずに、しぶとく生きている。


このいとおしさは何なのだろうと思う。
連中の懸命さゆえではないだろう。
共感とも違う。
なんなのか明確に分からないこの感情は、ただ俺の心の微妙なひだの奥に染み入り、脳に快楽と力を与えてくれる。


友よ。
おまえらや俺が歩む先には何があるのだろうな!?
歩き始めた以上、行くところまでは行ってみたいものだ。