見えないものが見え、聴こえないものが聴こえるヤツら

水曜日はデザイナ、カメラマンの方たちと。そして昨日はお世話になっている会社のスタッフと飲んだ。


水曜日ご一緒させていただいたのは年齢的にも、立場的にも、そして人間の深度の上でも大先輩にあたる*1人たちであり、主に「見る」「切り取る」ということをテーマに話を進めさせていただいた。
シャッターを押す一瞬、それはコンマ何秒の世界での判断であり、そこを理屈で考えてるわけではない。なぜ押したのか。押すときに何を判断していたのか。そういう要素をいくら抽出しようが、理詰めで理解しようとすると本質から遠のいていく。


判断速度を上げるためには数をこなせばいい。
脳ができるショートカットの数が増えれば判断速度は上がる。
判断の質を上げたければ、考え、行動し、結果を反芻すればいい。
そして、最終的には成果物がモノを言ってくれる。
写真もしかり。デザインもしかり。システムもしかり。料理も。音楽も。


何を表現したかったのか。何を感じて欲しかったのか。何にパッションを受けたのか。
成果物が持つ訴求力が高ければそれは一般に「良いもの」ということになる。
カメラマンの方と話をしているときに強く感じたのは、「良いもの」を作れるかどうかなどという部分の葛藤など、もはや通り越してしまっておられるんだなと。自分の深度ですら、与えられた要件の中でできるだけ早く Best に近い方法論を選択することは前提になりつつある。そもそも方法論を選ぶ作業にはクリエイティビティは薄いわけで、正しい知識とそれなりの経験さえ持っていれば、誰が判断しても方法論は大差がなくなる傾向が強い。
回りくどい物言いとなったが、被写体や要件を見たときに「どうするべきか」を切り取る部分こそが、最もクリエイティビティに富んだ要素なのだと最近特に思う。


そういう意味でも水曜にご一緒させていただいたデザイナとカメラマンの先輩諸氏の深度は限りなく深く、恐らく、いや間違いなく、彼らには、俺には見ることが出来ない何かを見て取る能力がある。
何が見えるのか。
作品にならなかった世界も山ほどあるはずで、それを覗いてみたいと思った。


昨日は年齢的には後輩に当たる連中と飲んだわけだが、やはり餅は餅屋。俺に見えないものが見えることがはっきり伝わってくる連中だ。連中とは付き合いも長くなりつつあるが、俺は、そういうヤツらに会えていることを、正直に幸せに思う。
人と人は違って当然で、それは前提だ。
違うから違うものが見えるのかというと、どうもそうではない。
むしろ、違うものが見えてしかるべきなのに同じような視野や感覚を共有できることが不思議なのであり、そしてそれはとても素敵なことでもあると俺は思う。
見ること、聴くこと、味わうこと、触れること、嗅ぐこと。これらは明らかに経験等によってその鋭さが上下するものであり、もっと言えば、それらを総括する「感じること」全般にもそれは言えるのだ。
あの連中は、そこを訓練することに絶えずさらされている。職業的にもそうではあるのだが、意識の有無はさておき、もっと根源的な部分で、哲学的深度まで立ち返ってモノを見ようとし、感じようとし、そして表現しようとしている。
いわば、てめぇの在りようを追おうとしているわけで、そういう訓練をしているヤツらが身近にいることはとてつもなく幸せだ。


俺も、いつか俺の音を醸し、俺の味を表現していけるようになることだろう。残念ながら、今の職種であるシステムエンジニアだのプログラマだのの領域には俺が追い求めるものはない*2
連中を退屈させてはいけない。
しかし、進めば進むほど、興味の対象が針の先のようにとがっていってしまうのはなぜなんだろうな。技術ってのは魔物なのかもしれんとなんとなく思う。

*1:とこちらで勝手に思うような

*2:無論貶めて言っているわけではない。技師の領域よりももう一つ二つ仕事のレイヤーが上な「問題解決屋」としての領域には感覚の世界が広がっていることは、俺自身の経験の上でもよく知ってる