できるだけのことを、できる限りの力で

失った心棒を取り戻す日々だった。
心棒を失うことを意思を持って迎合してきたわけではないのだが、通俗的なものを受け入れるべきであることに対し、存外に素直に諦念を持って受け入れて来た。無意識に。そう、意識することすらなく、徐々に徐々に諦念を受け入れていった。それほど日常は豊かで、幸せで、そして重たかった。
心棒などはとうの昔に消えうせ、自分がここにいるとただ叫び、そして叫ぶことに対してもいつしか諦めを持っていたのではないだろうかとすら思う。
それでも良かったのだろう。表面上は強く、たくましくもあれた。
それに、そのまま道を選べない、選ばない自分を保ち続けることでも、いつか、何がしかの終着に辿り着いたはずだ。俺の時が終わるきわに、それを俺がどういうふうに受け止めることになるのかは量りようがないが、自分を責め続けること程度は失わないでいただろうとも思う。
物事を為せる可能性とは、為せると信じた何かを放棄しないでいられる間のみ維持されるものなのだと、他人と自分を血だらけにしながら学んだ10年だった。


それを、意思の力で踏み外した。
いや、自分の深度では正しいと思うことができる道へ向かって、踏み外しなおしたのだ。
どこへ向かっても救いはない。そもそも救いを求めること自体が誤っている。俺以上に救われたい人や救われるべき人はおり、そしてそういう人々を自分の手で時間を掛けて救いがない場所へ突き落とし続けた。
自分がもっとも救われない道とは、案外、自分が幸せになることなのかもしれない。
ここに何がしかの意味を見いだすこと自体に意味を感じられない。
あるのは、ただ意思のみ。善も悪もない。あるいは欲すらない。
必死になって取り戻した自分の心棒とは、実はその程度のものだった。
肯定も否定もなく、ただ漠然と、そういうものなのかもなぁと感じている。


劇的な何かで、人が変わったりはしない。
その何かが劇的であろうがなかろうが、琴線に触れたものに対してどう向かい合っていくのかによってのみ変わってゆく。
その意味では、審判などいくつ下ろうが、またどのように下ろうとも大差はないのかもしれない。
下った審判とどう向き合うか。
そのときに自分はどう感じ、どう行動するのか。そこに自分の勝負がある。
飛べると信じたのならば、できるだけ強い力で踏み切り板から飛ぶべきだろう。
鈍らでは自分すら切り落とせない。鋭利である必要はないのだ。ただ、望んだ程度の切れ味を発揮してくれないと、俺自身が困るだろう*1


明日、審判が下るのかどうかすら、現段階では分からない。
モラトリアムはまだ続いているのだから。
犬死が怖い自分がいる。諦念がどうのといくらわめこうがこうなのだから、諦めの悪い話だ。
モラトリアムが終わる時までに、どうにか克服できれば、やってきたことの終着にはなるだろうと思う*2

*1:身近な人が困れば、どのみち困るのは自分だ

*2:その先については、すれすれの勝負をしなくなるというループになるようにも思うがなぁ