モラトリアム

相変わらず右手の指のしびれは引かず、握力も稼動域も平行線か、たまにちょっとした悪化を見せたりもする。日常生活は不便を極めている。
ただし、あの一週間前以来、目の前が暗くなるような症状は出ていない。なんだか突然フラフラすることはあるが、それはたぶん地球がフラフラしているからだろう。
医者の診察結果が出るのは 18 日だ。


それまではピアノも弾かず、酒も飲まず、無理な運動を避け、ひたすらおとなしく時が過ぎ行くのを待つ。
こんな右手になってしまった原因も理由もいろいろ考えられ、診察結果が出るまでは何をしたら良化するのかなど考えられようはずもない。ネットで情報を仕入れててめぇで判断するなど言語同断。生兵法は怪我のもとというが、勝手に措置を施しては病状を悪化させるだけだろう。


考えなくちゃならんことは山ほどあり、行動に移さなくてはならないこともかなりの数ある。
そのいくつかは現状では頓挫せざるを得ず、また診断結果によっては何がしかの方針の転換も考えられる。
それについて現状で考えることはまず無駄だろう。
ただでさえ闘わなくちゃならん対象に困ることはないのに、「一生このまんまだったら」などといったネガティブなもんを背負い込める余裕など、そもそもない。
波のようにそういう恐怖感が襲っては来るが、どう生きてよいのか分からなかった十代の頃や、魂がやられ、死を意識し続けた数年前のことを思えば、今回のモラトリアムはかわいいものだ。
18 日になれば、医者が何がしかの結果を言ってくれるのだから。


今はもうひとつ大きなモラトリアムの中にもいる。
人の人生を捻じ曲げてまで押し通した自己の後始末さえ、結果的にモラトリアムになってしまっているのは何の因果だろうか。
そして、前に向かう気持ちが強い状態の時の休息ほど焦れて苦しいものはない。
切実に思う目標に向かう時には対象を見失うことなどあるわけがないのだが、ある意味、それは自分にとって楽な状態なのだろう。
決めたら、力で真正面から寄り切る。それは言うほど難しいことではなく、だからこそ、真正面へ進めない苦しさにも耐えなくてはならない。
司馬遼の「世に棲む日々」によると、高杉は「艱難ヲトモニスベク、富貴ヲトモニスベカラズ」*1と言ったそうだ。
共にするには対象がいるのだが、対象を度外視して考えてみると「富貴を共に出来ない」理由は、切実に思う目標を失うからだろう。
艱難ならばひとつの目標を共有できるが、富貴な状態になると持て余す。自分にも他人に対しても甘えが出る。ここ数年の俺は、持つ資格がない「余裕」を心に付けすぎていたように思う。「富貴ヲトモニスベカラズ」な人間そのものになってしまっていた。


余裕ができると純度が鈍るようじゃこの先の残り時間は歩めない。不幸になるために生きているわけではないのだから。
俺に残された時間が10分であろうと数十年であろうと、余裕があろうと切羽詰ろうと、急にモラトリアムな状況に置かれようが、自己をコントロールし続けなくてはならない。
そう、たぶん、今、俺も試されているのだ。
俺自身にも、俺を写す鏡にも。

*1:「人間と言うのは、艱難は共にできる。しかし富貴は共に出来ない」