システム屋と政治家、思想家

司馬遼太郎著「峠」に、興味深いくだりがある。
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桜痴の紹介で、河井継之助福沢諭吉が会話を交わすシーンだ。
司馬遼太郎は、両者を、継乃助は政治家であり諭吉は思想家であるという相違点を指摘した上で、政治家である「継乃助は政治家である以上、その表現は言語によってではなく実際においてやらねばなら」ない立場であると書く*1
政治家と思想家の立場と役割の違いをさらりと定義する司馬氏の社会の切り取り方はやはり群を抜いており、同時に、人というものの在りようを見て取るセンスも卓越していたことが伺える。


システム屋になぞらえるならば、思想家は発案者であり、時に設計者。政治家は、最低限、設計者であり、実装者だろう。この分断はどこで生じるのだろう。思うに、形而上の思想から手段に引きずりおろす、実現可能な最適解を見つけ速やかに実行できるかどうかという、いわゆる0を1に変えるクリエイティブな部分こそ、思想家と政治家の間にある溝なのではないだろうか。
そして、その溝があるがゆえにビジョン無き政治が行われていると見て取れるように思う*2


司馬氏が描く河合継乃助を愛する者として「峠」を読みつつ、システム屋としてトウがたち始めた自分の今後をどう形作っていくのか改めて考えていこうと思っている。

*1:実際の史実では両者が会った記録はないそうだ

*2:例えば 衆院の任期 < 官僚の寿命 というように、システム自体の不備と見て取れる箇所が随所にあり、ビジョン無き政治が行われている原因が「溝」のみであるとは思わない