二週間が過ぎたころ

ここ数年、自分の心と真正面に向き合うのは避けてきたのだが、最近になって、祖母の死があり、来るべき日に向けて覚悟をする必要があり、また友人たちに起きたややうれしい出来事もあって、てめぇん中に抑え込み、厳重に蓋をしてしまっていたもんを引っ張り出す作業をしてみた。


とある店で「起伏のはげしい、分かりやすいタイプの人だよね」と言われ、ろくに考えもせず同意をしたのだが、脇で聞いてた俺をよく知る人は小首を傾げてた。そういうタイプでもあるのかもしれんし、そうだと自分で肯定すると周囲は小首を傾げたくなるタイプなのかもしれん。
ようするに、どちらも正しいのかもしれないと思う。


じつは人がどう見るかは呼び水に過ぎず、本質的に自身の今後をどうコントロールしていくのか――俺は何になりたかったのか、なにを目指しているのかを再構築したほうがよい気がしているのだ。


やること、できることを、やれるだけ全力でやるという、視点を短絡的に括ったような正論をかさに生きてはいるが、そういうまっとうかつすべてをも括れるような心得を自分に言い聞かせるだけでは、どうも質的/量的双方で思ったようにエネルギーが増えていかないと思うようになった。


それでもいいと決めたのも事実。心身ともに豊かに生き、周囲をも豊かにするためには、絶対的力量が不足していたのだから、引き上げるためにはそれが一番だった。
しかし、このままではおそらくまた自分を持て余すことになる気がする。蓋をしてたのは、自分の中にあるわけ分からんものが表出しては困るからだ。抑え込む能力を引き上げることで調整してきたのだが、それは飼いならせているわけでもなんでもない。


ともあれ、どう持て余すにせよ、轍を踏むことだけはしたくない。
以前すっころんだ時と比較して状況的に転べなくなっているのは確かだが、抑え込むのではなく、克服するために、視点を固定化するしばりを意図的に調整してもいいタイミングになったのではないか。
大切な存在を失って二週間。精神状況がどうなのかいまひとつ自分で判断がつかない中、暗中模索が続いている。