悩める人へ

何をどう書くべきか、迷った。
この文章の対照は一人。従って、何かしら効果が上がることを伝えたいと思ったからだ。
考えれば考えるほどそれは難しい。なぜなら、伝えたいことの趣旨は、とりあえずは「何もかも自分の考え方次第である」ことであり、その趣旨からすれば、効果が出るかどうかすら自分次第だからだ。


あなたが今悩んでいることの発端は知らない。
ただ、その原因はなんとなく指摘できる。
それこそ、日々、「自分が自分でない」「本当の自分が抑圧されている」「今の作られた自分を壊すと収拾が付かなくなる」といったことを感じてはないだろうか。
思い描いていた社会と実際に触れる社会のギャップに苦しみ、ようやくできたばかりの「自分」が壊れていってしまうことへの恐怖があるように思う。
結論から言ってしまうと、おそらくそれは誰しもが抱える(た)問題で、そしてしっかりと克服することができる「課題」とも言えるものなのだ。
課題を克服すると、もらえるものがある。
俺の場合、もらえたものは、ありきたりではあるが、自分が自分であるという「自信」と「誇り」だった。


思いかしてみると、今まで、自分に自信が持てないという話をいろいろな人から聞かされてきた。
若かりし頃から、それこそ年の上下関係なしに、よっぽど自信家に見えたのだろうか、なぜかそういった話をよくされるほうだったように思う。
俺だって、自信なんかない。当時はもっと。
あったのは無知ゆえの過信と向こう見ずな勇気。そして漠然とした希望。
自分自信が中途半端なのはだれよりもよく知っていた。人に指摘されるまでもなく。
同じように自分が社会不適合者であるという認識は、当時はもとより、今ですら、自分の心の奥底にそっと手を触れればいまだにうずく古傷のようなものになっている。


レッテルが貼られた*1のは、中学へ行かなくなりだしたあたりだったろうか。
麻雀や競馬に明け暮れ、2 年で取ると豪語した大検取得に 4 年を費やした。
ハタチに近づく頃、自分のしでかした無知ゆえの決断が取り返しがつかないものだったということに気づき、そして 22 の誕生日を待たずして人の親になった。
このまま東京にいては何もできない。何より友人たちに半端な自分をさらけ出すのが嫌で、懐妊した嫁の実家である九州のとある県にIターンし、そこで就職した。
やっと拾ってもらった会社でも破天荒な振る舞いからリストラを招き、世話になった恩を返すことなく会社を去った。
それからはスロットや飲み屋のバイトで食う日々。そこでも助けてくれる人がおり、結局はその人がいたから、また東京へ戻ることができた。


思い起こしても、あったのは運と勢いだけ。人にはセンスがあると言われ続け、多くの先輩に可愛がってもらった。
自分もセンスとやらがあることを信じていた節があるが、今に至るまでにはそんなものは糞の役にも立たなかった。今なら分かる。致命的に甘かったのだ。
そして、何よりも、その甘さを自ら徹底的に知る機会に恵まれたこと*2は、あるいは神に感謝すべきなのかもしれない。
知ったからには克服するしかなかった。なんせぶっ壊れた自分の心を正常化するためには、前を向く以外ないところまで来ていたから。


昔話をしたいわけではない。
できれば黙っていたいみっともない過去だ。
いいかい? 一見して人と違う何かを持っていること、それは個性という。人と同じである必要はない。いや、同じになろうとしたってできないじゃないか。そもそも同じとか違うって何と比較してのものなんだい?
親になって驚いたのは、0歳児にだって個性があること。
性格も顔立ちだって違う。好みもあれば、感情が動くきっかけだって違う。
同じであることなんか実は少ないものなのだ。人と違って当然。まず、これが一つ目の前提。


確かに個性はそれぞれあるが、本当に自分の個性を理解できているかな?
平均的な何かと自分を比べて、そこに向かって背伸びすることで一杯一杯になっていないかい?
それはあなたが歩む道の大切な行程であることは間違いないが、そこで力尽きてしまってはいけない。
むしろ、きちんと自分の長所を見つけ、それを育むことに尽力したほうがいい。
抑圧されている*3個性が強ければ強いほど、また、一意性が高いものであればあるほど、それに立ち向かうのにはエネルギーを要するのだ。自分以外、誰も解答を導き出すことはできない。


個性は、もまれ、磨かれて、そして自ら磨いて伸びるものだ。
そのためにも、誰よりも深く自分を知り、そして自分で自分を認めてやること。
一番自分らしい誰よりも誇れることの芽となる部分を自分で蓋をしてしまってはならない。
時には自己否定も必要だろう。ただしできればそれは前向きなものであったほうがいい*4。個性は、自分の心の拠り所でもあるからだ。

本質的に、あなたが抱える悩みは自らが乗り越えるべき試練だ。
なぜなら、社会は変わってくれないし、ギャップにいらだつ自分をどうにかできるのは自分自身でしかないから。
自分の心がくじけてしまううちはやり過ごすくらいしか手立てがないのだが、立ち向かおうと目を開けばいくらでも打開策は見つかるはず。そして、方法論は、誰かに言われた何かであるより、自分自身で発見したほうがはるかにリターンは大きい。


最後に一つ。
悩みに向き合い、あがき、そしていつか乗り越えた時、どうなると思う?
俺は「自信」と「誇り」を得たと書いた。
それは刹那的なものに過ぎない。人は、嫌でも変遷していくものだ。
変わらないのは、次もまた「悩み」がやってくることくらいのものだろう。
こういう、上から目線でしたり顔でモノを言うおっさんを打ち砕くような何かをぜひ見つけてもらいたいと願っている。

*1:自ら貼ったともいえる

*2:この直接の原因と俺が取った解決法を知る人の多くは、おそらく俺を評価しないだろう。他者に理解されることよりも自分の筋を優先したためそれはやむを得ない

*3:あるいは自ら抑圧している

*4:俺の経験では、前を向けないへこたれた心に一番優しかったのは、漠然とした希望だった。時として友人たちよりも